外鎌山(忍坂山)の西麓に鎮座する忍坂坐生根神社は忍阪の氏神様として厚い信仰に支えられ今も忍阪の住民が毎日交代で御灯明をあげお守りしています。祭神は国造りや薬の神さんとして知られる少彦名命(すくなひこなのみこと)と額田部氏の祖・天津彦根命(あまつひこねのみこと)。当社は本殿がなく背後の宮山(忍坂山の一部)をご神体としています。創祀年代は不詳ですが730年(天平2)の『大倭国正税帳』に名前の見える古社で927年にまとめられた延喜式神名帳の城上郡の三十五座中に「忍坂坐生根神社」があり当社が該当すると思われます。
「三輪流神道探秘抄」という古書に「忍坂宮イクネ大明神、イズレモ三輪ノ大明神ノ御子神トイエリ」とあり三輪明神との深い関係も窺えます。拝殿の北には神が鎮座する「石神」と称する径40㌢、高さ20㌢程度の自然石を十数個並べた磐座(いわくら)があり古い信仰の形を今に伝えています。また拝殿に向かって左側には、このあたりでは珍しい子持ち狛犬があります。
「記紀万葉さくらい」チャンネルより引用
万葉集研究家の扇野聖史は著者「万葉の道」で額田部氏と生根神社との関係を以下のように紹介しています。(✱大同類聚方とは平安時代初期の医書)
「大和志科」は「忍坂山の宇、宮山を以って神体となし別に宝殿の設なし。 其の故実を詳にせず。今少彦名命を祭る。何に拠るを知らず。案ずるに✱大同類聚方に当社相伝の生根薬と称するものを載せ、額田部氏の奏上せしものなりと。額田部何人なりしや詳ならざれども、同書を通読するに、総て神社の薬方は其の神職若くは氏人の奏上に係るもの甚だ多かれば、疑らくは氏は当社の神職なるべし。よし神職たらざるも既に当社の薬方を其の家より奏上するは必ず深き縁故を有するならん。而して額田部氏は天津彦根神より出ぞ。(略)然らば則ち古、忍坂に額田部氏の住するあり。其の祖天津彦根命を祭りて生根社と称せしものなるべし。因に云ふ、大同類聚方に「城上郡生根之里」と見ゆ・・いだろうとする興味深い資料を紹介し額田部氏が居住していたと思われる忍阪が鏡王女や額田王の生育地ではなかろうかとの考えを示しており興味をそそられます。