万葉歌碑

桜井市の万葉歌碑
柿本人麻呂、額田王など「山の辺の道」をはじめ桜井市の古道には「万葉集」にその名を残す名歌人たちの歌碑が六十数基、残されています。これらの歌碑は昭和46年当時の桜井市長と桜井市出身の文芸評論家、保田與重郎氏を中心に「心ある人々に記紀万葉のふるさとと桜井の歴史を体感し楽しんでいただこう」という思いで呼びかけられ多くの文化人に賛同をいただき揮毫されたものです。 

さくらいと「令和」
泊瀬の山は 新元号「令和」は大宰府の大伴旅人邸で開かれた「梅花の宴」。ここで詠まれ「万葉集巻五」の「梅の花の歌」の序文に記されたものが由来とされています。この大伴旅人の義理の妹とされるのが女流万葉歌人として知られる大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)です。桜井市の数ある万葉歌碑の中で彼女の歌碑は以下の三基があります。さくらいの万葉歌碑巡りの際には是非お訪ね下さい。(歌碑巡りには桜井市観光協会発行の大和の古道紀行が便利です)

それぞれの歌碑の紹介はクリックして是非ご覧ください。
●隠国の 泊瀬の山は 色づきぬ しぐれの雨は 降りにけらしも(長谷寺 本堂の横)
●こもりくの はつせの山は色づきぬ しぐれの雨は 降りにけらしも(三十八柱神社)
●妹が目を 跡見の埼の秋はぎは 此の月このつぎごろ散りこすなゆめ(等彌神社境内)

大伴坂上郎女
万葉歌人の中で最多の八十四首を残し、特に男女の歌を詠ませると右に出るものがいないとされる。父は大伴安麻呂で、毋は石川郎女。旅人は異母兄稲公の姉、家持の叔母姑である。