宗像神社(桜井市外山)
鳥見山の北麓に鎮座し、宗像三神(多紀理毘売命、市寸島比売命、田寸津比売命)を祭神とする宗像神社は、天武天皇の御子、高市皇子が母親の胸形(むなかた)尼子娘の実家(筑前・現福岡県)の氏神である、宗像三神を祀ったのが始まりといわれています。
宗像神社は全国に散在していて、それぞれいつ頃からの鎮座か検討が必要ですが、この宗像神社は「延喜式」に記載されているばかりか893年には太政官府にひく高階真人忠峯の解状では、筑前国宗像郡金崎の人たちが16人修理にかかわったという事実があり宗像大社との古くからの強いつながりが感じられこの地に北部九州系の神社があることは注目に値する。
その後、祭祀を司ってきた高市皇子の後裔・高階義岑が、南北朝の争いの際に南朝に味方し戦い、当時鳥見山の中腹にあった宗像神社は、兵火で焼失し小祠だけとなり、興福寺の支配下で名前も春日神社となりました。 以降、神社は荒廃の一途を辿ったようですが、正平9年(1354年)高階忠正は神霊を自邸に移し中島弁財天と称しました。嘉永7年(1854年)当地を訪ねた幕末の国学者、鈴木重胤は、玉井氏(高階氏と同様、高市皇子の後裔)の庭園に祀られていた中島弁財天を知り、克明に伝承や民間信仰を調査し、中島とは宗像中津島との繋がり、弁財は神仏習合に女神宗像神と考え、宗像三神の再興に務めました。そして安政6年(1875)に改めて、筑前の宗像大社から分霊をうけ再興され、明治8年(1874年)に春日神社の社号廃し宗像神社とされました。
国史跡の桜井茶臼山古墳から、東に向かって約5分、外山(とび)のバス停のすぐそばにあります。近年(平成21年)社殿が建て替えられています。