白山比咩神社・萬葉集発耀讃仰碑(桜井市黒崎)

上記2枚の写真は現地見学会資料(橿原考古学研究所)より引用

木棺は原形を失っているものの  白山比咩神社は旧指定村社で祭神は白山比咩と菅原道真です。玉垣内に南面する本殿その前に拝殿があります。石灯籠が12基あり古いものは1600年代のものもあります。境内に日本浪曼派のリーダー保田與重郎揮毫の萬集発耀讃仰の碑と万葉集全二十巻の巻頭を飾る雄略天皇の歌碑があることで知られます。この万葉集を現在のメロディにアレンジし広く萬葉集の素晴らしさを伝えてくれるのが万葉うたいびと風香さんです。この下の動画も是非ご覧ください。、遺存していた底部分は長さ4.89m、幅75㎝、最大厚27㎝を測る 長大なものです。石室の閉塞には全面を朱で塗布された12枚の天井石が使われ、その上部はベンガラを塗り込んだ赤い粘土で覆われていました。 墓壙の上部には南北11.7m、東西9.2m、高さ1m未満の方形壇が造られ、壇の上面は板石と円礫で化粧され、周縁には二重口縁壷が並んでいたと思われます。

 今回の調査では新たに、竪穴式石室を取り囲むようにして建てられていた「丸太垣」と命名された柱列(推定約150本)の痕跡見つかりました。又、1949年の調査で取り残したと思われる銅鏡の破片が多数見つかり、およそ81面以上の鏡が副葬されていた事が判明しました。(1949年の発掘では王者の権威たる玉杖の他、銅鏡、玉、剣、玉葉等が出土し、橿原考古学研究所附属博物館でその一部を見ることができます。)

 埋葬施設は調査後埋め戻されて見ることはできませんが、今も古墳内には自由に出入りできます。通常このクラスの古墳はほとんど陵墓に指定されており、入ることができませんが近くにあるメスリ山古墳と共に、墳丘内に入れますので是非この200m級の古墳の巨大さを実感していただきたいと思います。尚、北200mの城島(しきしま)遺跡では、この古墳の築造時に使われたとみられる木製工具類が出土しています。

 万葉集4516首の冒頭を飾るこの歌を詠んだ雄略天皇(雄略大王)は5世紀後半の天皇で中国の「宋書」にも倭の五王として登場し古事記や日本書紀にもその伝承をめぐる話が沢山語られ、その存在がかなり大きかった天皇と言えます。

 桜井市教育委員会の説明板には以下のように書かれています。 
「泊瀬朝倉宮の場所については諸説あり保田與重郎はこのあたりを宮跡と推定しました。桜井市黒崎の「天の森」が朝倉宮の地であるとの説は「大和誌」や「日本書紀通証」などで述べられているが、立地的に見て宮を営むのに適地ではない。 保田與重郎はこの白山神社付近をその候補地として、雄略天皇の歌で始まる「萬葉集」の発祥の地として、神社境内に記念として建立したものである」        桜井市教育委員会