「大和の古墳チャンネル」より引用
舞谷古墳群は鳥見山の南山麓に放射状に伸びた小尾根上に造られた古墳群で尾根毎に1墳丘づつ東西に並ぶ古墳群です。(調査前までは2号墳の事を舞谷古墳とよばれていました。)
1973年から行われた外鎌山北麓古墳群の調査で2基の磚積式石室(忍坂8、9号墳)が検出されたの機に舞谷周辺の分布調査が行われ新たに4基の磚積式石室が見つかり西から順に1~5号墳と呼称することになりました。2号墳以外は1墳多室の可能性がある事が調査の結果判り終末期古墳の研究上極めて重要な古墳群であることが確認されました。
発掘調査は3号墳(1981年)4号墳(1984年)5号墳前庭部(1986年)で行われ1号墳は測量調査(1985年)のみ行われています。いずれも石材は榛原石で2号墳は石室が一基だけですが3,4号墳では、それぞれ3基の石室が確認され1、5号墳も周囲の状況などから3基の石室があると推定されています。従ってこの古墳群はなんと5古墳13石室であった可能性が考えられます。
墳丘は全て方墳で、1号墳は破壊が激しく測量調査のみで、実態が不明ですが、いずれも榛原石を漆喰で固めた磚積式の石室を持つ古墳群です。現在、唯一見学できる2号墳は墳丘が東西約11m、南北9m、高さ約2.5mの長方形で、石室は全長4.4m以上。玄室長は2.4m、幅1.3m、高さ1.7m。天井構造は奥壁と側壁を少しずつ持ち送りし天井断面は寄棟造りのようになっています。羨道部については半壊し構造がよくわかりません。
舞谷古墳群は同一集団による墳墓で築造時期は7世紀中葉と考えられています。また榛原石を用いた磚積式古墳は、桜井と宇陀地域に多く見られる特徴ある古墳です。桜井市には他にも花山西塚古墳(国史跡)花山東塚古墳、忍阪8号墳、忍坂9号墳などの磚積式の石室を持つ古墳があります。