磐余の道(いわれみち)は考古学上は「安倍 山田道」と呼ばれることがありますが、ここでは一般的な「磐余の道」で紹介いたします。
古代の幹線道路である磐余の道は、上ツ道と横大路の交差点から安倍丘陵に沿って南西に斜交し、時の都であった飛鳥へ至る古道です。2002年の安倍寺遺跡の発掘調査で、道路面と西側側溝に推定される石敷きや石組み溝が発見されています。
磐余の範囲は、郷土史家の栢木喜一氏の「桜井風土紀」によると、桜井駅から西南方の旧安倍村一帯の地とされ、この地には履中天皇の磐余稚桜(いわれ わかざくら)宮、清寧天皇の磐余甕栗(いわれ みかくり)宮、継体天皇の磐余玉穂(いわれ たまほ)宮、用明天皇の磐余池辺双槻(いわれ いけべ なみつき)宮と四天皇の宮都があったといわれる地域でもあります。