31.金鳥臨西舎 鼓聲催短・・・

揮毫者 福田 恆存
大正・昭和期の評論家。劇作家。進歩的文化人の平和論を批判、国語改革論争も展開する。劇団『昴』を主宰。

金鳥臨西舎(きんう せいしやに てらい)

鼓聲催短命(こせい たんめいを うながす)

泉路無賓主(せんろ ひんしゅなく)

此夕離家向(このゆう いえをさかりて むかう)

  懐風藻  大津皇子 

神風 ( かむかぜ ) の 伊勢の国にも あらましを何しか来けむ 君もあらなくに

  (巻2-163)大来皇女

漢詩の意味
金鳥(太陽)はすでに傾いて、西の家屋を照らし、時を告げる鼓の音は、死を目前にした短い命をせきたてるように聞こえてくる。死出の旅路には、お客も主人もなくただ一人ぼっち。この夕べ自分の家を離れて孤影さびしく黄泉の旅へ出立しなければならない

大津皇子
天武天皇の第三・皇子(持統紀)。懐風藻には天皇の長子としている。母は天智天皇の皇女、大田皇女で母方からいえば天智天皇の孫にあたる。壬申の乱の時には天武天皇挙兵の報に接するといちはやく近江を脱出して鈴鹿で父、天武軍に合流、以後陣営をともにした。

歌の意味
伊勢の国にいればよかったものを、どうして帰ってきたのであろうか。大津皇子もいないことなのに

大来皇女
天武天皇の皇女。毋は大田皇女。斎王制度確立後の初代斎王(斎宮)。弟の大津皇子が刑死した1ヶ月後に、伊勢斎宮の職を解任され、都に戻った。大宝元年(702年)に薨去。三重県名張市の夏見廃寺(国史跡)は、大来皇女の発願により神亀2年(725年)に完成した昌福寺とされている

歌碑の場所 31番
吉備池北側にある春日神社の境内に東南して建つ。