梶山古墳群(桜井市倉橋)

 奈良県の溜池で最大の大きさを誇る桜井市の倉橋の溜池は昭和21年に粟原川の支流をせき止めて作られたが梶山古墳群(43基)の多くが水没や破壊の運命にあり戦後間もない1946年に末永雅雄博士の指導でこのうち4基だけが調査されました。戦後まもなくの調査で正式の調査報告書は出てませんが調査担当の島田暁氏の「梶山古墳調査の記」には、当時の調査状況を以下のように記されています。

●1号墳・・・「石室の天井部から中を覗けるけれども、羨道の入口の開いてゐない1号墳であったが、案に相違してやはり盗掘されて、松香石の組合石棺も破片が散乱してゐるだけであった」

●2号墳・・・「1号墳の北寄りで羨道の口が現はれ、辛うじて出入りの出来る2号墳を次に浚へかけたが、石室の壁が崩れそうで中止することにした。」

●3号墳・・・「・・・崩れて失われてゐると思った奥壁が出てその前に、口を合わせた甕が全貌を現した。・・・この種類の須恵器の合口甕棺はときどき各地で掘り出されるが、それが古墳の石室から出土したといふ前例を聞かないから、凡らく内地では最初の事ではないかと思ふ。」

●4号墳・・・「慎重に土をかきわけてみると、肩部に小形の坩を付けたいはゆる子持坩で、横長の四角な窓のある台を持ったのが現はれ、引続いて土師の壺や須恵の高坏が出土した。

以上の4基は水没したが今も水没を免れた古墳が雑木林の中に存在している。それが今からご紹介する2基の古墳である。他にも4~5基が下記の奈良県遺跡地図にあるが未確認。 

●15C-30 円墳、径16m、横穴式石室、古墳時代後期。全長8.5m、玄室の長さは3.6m、巾1.6m、羨道幅は1.35mの両袖式の石室である。出土遺物が知られてないため、正確な年代がわからないが、石材の積み方などから、6世紀後半から7世紀初頭頃の築造と考えられる。

●15C-32 円墳・径9.5m、横穴式石室、古墳時代後期(奈良県遺跡地図) 両袖式の横穴式石室でサイズはメジャーで筆者が実測した値では全長が約6.7mで羨道部が長さ約2.9m、幅約1.2m、高さ約0.7~1.1m、玄室部は長さ約3.8m、幅約2.2m、高さ約2.5mで15C-30より玄室は一回り大きい。石積は比較的平面が平らなものを内側に向けている。15C-30とあまり変わらない時期の築造と思われる。