脇本遺跡は奈良盆地の東南部に位置し、三輪山と外鎌山(忍坂山)に挟まれた、泊瀬谷の入り口にあたる場所にあります。春日神社のあたりはその中枢部があり東西約300m、南北約250mの範囲に遺構が散在していた可能性が指摘されています。飛鳥に宮が移るまで三輪山の西南麓から香具山あたり一帯は、大王(天皇)や皇后の宮が13もあったと伝えられ、大和王権の中心地域でした。
しかし伝承地は、ほとんど調査されることなく今日に至っていますが、脇本遺跡に限っては過去18次にわたる調査が橿原考古学研究所と桜井市教育委員会によって行われ、5世紀後半、6世紀後半、7世紀後半の大型建物跡などが発見され、5世紀後半の遺構は雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)跡と推定され発見された南北方向の掘立柱建物2棟は脇殿で正殿は春日神社西側の集落内にあったのではないかと考えられています。(雄略天皇は万葉集巻1の巻頭歌でも知られる第21代の天皇で、当時は大王と呼ばれていました)
また6世紀については欽明天皇の行宮である泊瀬柴垣宮(はつせのしばかきのみや)跡 、7世紀のものについては大伯皇女の斎宮跡の可能性が指摘されています。この地は、宮殿の前に泊瀬川(初瀬川)があり、すぐ近くにはヤマト王権の武器庫の可能性がある忍阪や軍事氏族の大伴氏の本拠地もあったとされ、水陸交通の要所として大和と東国を結ぶ重要な場所に位置付けられています。
脇本遺跡は近鉄、大和朝倉駅から約500m(徒歩、約10分)のところにありますが調査区は埋め戻しされたり建物が建てられたりして現在は地中にその姿を隠していますので、お越しの際は遺跡内にある春日神社や万葉歌碑を合わせてご覧になるとか近くの玉列神社や忍阪も合わせて散策されるといいでしょう。